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パレ・ロワイヤル
ルーヴル美術館の北、向かい側に位置しているとても穏やかな長方形の庭園と、それを囲む建物は歴史遺産です。現在では文化通信省、国務院などが入る政府の行政施設となっています。今はとても静かな佇まいですが、実は革命前はパリで一番といっても過言ではないくらいに人々が集まる盛り場だったのです!その歴史を振り返ってみましょう。
リシュリュー枢機卿の宮殿でした。
17世紀、ルイ13世の居住していたルーヴル宮のそばにリシュリュー枢機卿が自身のために城館を建てました。枢機卿の宮殿という意味の Palais-Cardinal(パレ・カルディナル)と当時は呼ばれていましたが、1642年に彼が亡くなり宮殿は王家に寄贈されました。しかしルイ13世も翌年1643年に亡くなります。そして幼きルイ14世が母と共にその城館に引っ越して過ごしたため、王宮(パレ・ロワイヤル)と呼ばれるようになりました。
その後宮殿はオルレアン家に渡ります。
ルイ14世が再びルーヴル宮に戻ってからは、宮殿はルイ13世の末の妹(イギリスの王チャールズ1世の妃となったアンリエット=マリー=ド=フランス)の邸宅となり、その後彼女の末娘アンリエッタ・アン・スチュアートがルイ14世の弟であり、初代オルレアン公フィリップと結婚したために、建物がオルレアン家の手に渡ったようです。
フランス革命時のパレ・ロワイヤル
オルレアン家によって度々改修が行われましたが、革命前の時期に、5代目オルレアン公・フィリップ・エガリテ(平等王)と呼ばれた人が、大々的に改築します。一般の人達の出入りを許可し、中庭を取り囲む建築を商人達に貸し出して収入を得ようとしたのです。建物の一階にはカフェや商店、レストラン、賭博場が並び、人々で大層賑わったようです。更に中庭への警察の立ち入りを禁止したため、革命家達が集う場ともなりました。1789年7月12日、革命派のジャーナリストであるカミーユ・デムーランが「武器をとれ」とカフェの机の上に仁王立ちになって演説、市民を扇動をします。それが7月14日のバスティーユ監獄襲撃への引き金となりますが、その街頭演説の場こそ、このパレ・ロワイヤルだったのです。
段々と衰退していくパレ・ロワイヤル
この場所は革命後国家のものとなり、そしてまたナポレオン時代には王家のものと時代と共に所有が変わっていくことになります。革命後、貴族の力が弱まり、料理人達がそれぞれレストランを商売としてこの地にレストランを開くようになったことから、1800年前半は一番流行りの高級レストラン街になっていったようです。しかし1836年にルイ=フィリップ王が賭博・売春の禁止を決めると、その後段々と衰退していくのです。
現代アートとも融合するパレ・ロワイヤル
今となっては革命期に沢山の市民の前で革命家が演説をしていたとは思えない程の静けさを放っています。しかし、現在は政府機関の集まる重要な場所となっているので、政治に関わっている場としては変わりありません。
1985年には中庭広場に現代アーティスト、ダニエル・ビュランの白黒ストライプの円柱が置かれました。歴史的建造物とモダンアートの不思議な融合を見ることが出来ます。
パレ・ロワイヤル入り口にあるメトロのガラス細工
パリのメトロ100周年にあたる2000年からは、メトロ、パレ・ロワイヤル駅の出口、コレット広場にジャン=ミッシェル・オトニエルの作品「夜遊びをする人の東屋」が設置され、カラフルなガラス細工が道行く人々の注目を集めています。
Le Palais Royal
8 Rue de Montpensier 75001 Paris
メトロ:Palais-Royal 駅、Musée du Louvre駅
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